詳細情報
- 戦う女たち――日本映画の女性アクション
- 発売日: 2009年08月08日
- 作品社
- Amazon 価格: ¥2940 (税込)



カスタマーレビュー
- 「戦う女たち」の「悲しみ」と誠実に向き合う良書
- 「女が戦うってことが悲しみじゃないですかねえ。」
志穂美悦子が口にしたというこのような言葉から、本書は始まる。
この問いを受けた四方田犬彦が、「女の戦いはなぜ悲しいのか」という問いを立て、各論者がそれに応答する。美空ひばりから「プリキュア」まで、扱われる対象のラインナップはかなり幅広い。見方によっては、恣意的なラインナップだと思われるかもしれない。しかし、読み進めていくと、このラインナップにも明確な一つの軸があることが分かるようになっている。
その軸とは、〈変装〉または〈変身〉というモティーフ、あるいは概念である。これは女性が男装をするという方向の〈変装〉だけでなく、男装の女性が女装する、という複雑な〈変装〉も含まれていれば、〈変身〉によって女性/男性というカテゴリーを超えた存在に覚醒する例も含まれている。こうした〈変装〉、〈変身〉の瞬間に、ジェンダーや性の規範が攪乱され、多様性が現れる。各論文は、一本一本の映画とじっくり向き合うことで、そうした多様性を浮き彫りにしようと試みている。
試しに、いくつかの論文に注目してみよう。鷲谷花は、女性アクション映画における「男役」と「女役」の格差、あるいは役割分担ともいうべき制度について触れた上で、その分担が混乱する瞬間(例えば乱闘シーンにおける逞しい身のこなし=「男役」的身振りと、同時に着物から覗く素肌=「女役」的身振りの同時発生)が、女性アクションの要であると指摘する。板倉史明は美空ひばりのフィルモグラフィーを「少女」時代と「娘」時代に分けた上で、「娘」時代の美空ひばりの異性装時代劇が観客のジェンダーや性に関する認識を演出のレベルで混乱させ、性に関する多様な解釈の可能性を遺したとする。斉藤綾子は「緋牡丹博徒」シリーズにおいて、「男」の役割を担いつつも見かけ上どうしても「女」であらざるを得ない「お竜さん」=藤純子という特異な存在を映すための複数のコード(ジェンダーのコード、任侠のコード等)の関連と、その変奏を詳細に検討する。
このように、本書に収録された各論文が特に着目するのは、ジェンダーや性のカテゴリーに揺らぎが生じ、ときに規範を転覆するに至る瞬間である。
この他の論文も面白いので、一読を勧めたい。安田(現・大楠)道代を論じる志村三代子論文。石井輝男、鈴木則文、「女囚さそり」シリーズから、『イースタン・プロミス』、「キル・ビル」二部作をも視野に収めた真魚八重子論文。四方田犬彦による志穂美悦子論。女性アクション映画製作の当事者である内藤誠による極私的「女性アクション」史。『バトル・ロワイアル』や『あずみ』など近年の女性アクションを概観し、それらに通底する問題系を分析していく鷲谷論文。『セーラームーン』から『ふたりはプリキュア』、『少女革命ウテナ』まで、女性キャラクターを主人公としたアニメーション作品を取りあげ、現代思想やオタク文化の言説も視野に入れた上で、それらの「美」に迫ろうとする石田美紀論文。
いずれの論文においても、映画におけるジェンダーが問われることになる。しかし、本書は性やジェンダーの問題を論じるために映画を「使う」ことはしていない。あくまで、映画の分析を基本として、映画の構造や映画の魅力それ自体と関わるものとして、ジェンダーの問題を丁寧にあぶりだす。質の高い分析と、映画それ自体の魅力についての記述とを何とか両立させようとしていることが、本書における「戦う女たち」の「悲しみ」の追求を、誠実なものにしている。